原監督は今季、リーグ&日本シリーズで優勝すると巨人の監督としては
水原茂監督と並び、川上哲治監督に次ぐ歴代監督2位の成績となる。
WBCでの優勝を入れたら水原監督以上。間違いなく名将でしょう。
現役時代、成績は決して悪くはなかったのですが、常にONと比較される不遇にあった。
私が知っているのは、東海大相模時代からです。
鹿児島実業の定岡正二選手と並び、都会的なカッコ良さで、多くの女性ファンが球場に押し寄せた。
当時の東海大相模の監督は実の父、原貢氏です。
貢氏も東海大相模の名を全国に轟かせた高校野球の名将です。
親子鷹と呼ばれ、後に原辰徳選手が東海大に進学すると同時に、貢氏も東海大の監督に就任し、
リーグ優勝こそ逃すものの、辰徳選手は個人タイトルを含め好成績を残しました。
1981年 藤田元司巨人に入団。
1990年の頃まで華々しかった記憶があります。
余談ですが、定岡正二選手は巨人入団後、体の線が崩れるのを気にして食事制限をしていた。おまえプロか?と思った。
また、前年に巨人に入団した篠塚和典選手もまた女性ファンに人気が高かった。
だが女性問題が多く離婚は1回だが、球界の『火野正平』の異名をとっていた。
これには笑った。
Wikipediaによると、1992年から故障がちで成績不振になっているが、
本当の原因は貢氏の不動産事業の失敗にあるのではないでしょうか?
原辰徳選手自身が投資していたような記事もありますが、
私の記憶の中では、
『相模原に父親が経営するサムビルの経営が、バブル崩壊により破綻状態に陥り、
ライオンズマンションで有名な大京観光率いる横山修二氏が救済!』
という週刊誌の記事が記憶にあります。
だから、原辰徳選手の結婚式の仲人は長嶋茂雄元監督でも藤田元司現監督でもなく、横山修二夫妻です。
赤プリの『クリスタルルーム』で満面の笑みを浮かべる横山修二さんのTV中継を見ながら、何か違和感を感じました。
原辰徳選手は巨人入団以後、大京観光のセミナーやイベントに何度も招聘されています。
当時、横山修二さんはタニマチが高じて、球界進出を画策していたので、他の野球選手もよく招聘されていました。
横山修二氏は中日ドラゴンズの球団経営を目論み、
リゾート開発で進出したオーストラリアのゴールドコーストに球団キャンプ地の誘致に成功していました。
当時、ドラゴンズの帽子のロゴのCDが大京ドラゴンズ?と揶揄されていました。
大京観光の横山修二社長がキャンプ視察に訪れる際には、選手全員で空港でお出迎えが慣例行事です。
これをただ一人拒否したのが、不動の4番落合博満選手でした。
なんせ私の鬼嫁は元大京観光社員で、他の社員とも付き合いがあったのが情報源です。
90年代、4番から外された原辰徳選手が球場に乗り入れる車は、ベンツのAMGからトヨタのソアラに降格。
変わって、新4番の吉村禎明選手のベンツAMGでの球場入りには、原辰徳選手を取り巻く環境の厳しさを感じました。
あの頃バブル崩壊により、江川卓選手にしても桑田真澄選手もまた、多額の負債を抱えています。
だから江川の巨人監督、桑田選手の大リーグ、共に叶わなかった。
原辰徳選手は1986年に結婚しています。
奥様の名は旧姓松本明子さん。
バラドルの松本明子さんではありません。
大学時代に交際は始まり、巨人入団1年目にプロポーズをします。
しかしながら、6歳も年上であること、プロ1年目であることから父親の貢氏に反対をされます。
辰徳選手は懸命の説得を試みる中、空気を察した明子さんは原選手の前から自ら消え去り、他の男性と結近しました。
しかしながら数年後、偶然成田空港で再会します。
原選手は海外キャンプに向かう途中、明子さんは海外旅行からの帰路でした。(行き返り逆かも?)
離婚の傷心旅行であることを原選手に告白し、交際が再スタートします。
そして結婚に至りますが、不動産投資に失敗し影響力の低下した貢氏には、最早再交際を止められなかったのでしょう。
明子さんが元ホステスの噂もありますが、私の記憶では違うような気がします。
私の記憶では、東海大学のキャンプ地で出会ったというのが真実だった様な。
同世代の原辰徳監督の成功には、憧れと共に勇気をもらえます。
ただその後の女性スキャンダルに係る1億円問題は非常に残念です。
優勝を重ね、汚名返上を願います。
ヘナ(香草カラー)あります!
面貸し、業務委託受付中!