70年から90年代、日本の学習能力は世界でトップクラスだった。
しかしながら今日先進国どころか発展途上国にさえ追いつかれ追い越される現在です。
戦後の日本の高度成長期と91年以降の失った20年?30年?を見てきて思うのは、日本の経済成長の停滞の原因は教育の失敗にあるのではないか?と感じるのです。
私が見てきた高度成長期下での時代と教育現場についてちょっと書いてみます。
【教育格差が甚だしかった幼少期から小学校時代】
私は生まれは杉並区ですがアメリカ的な生活に憧れた父が船橋にマイホームを構え、1960年代の半ばから10年間を船橋で過ごました。
船橋といっても三咲という奥まった所で、当時は一部単線の新京成線の駅で見渡す限り田畑と雑木林でした。
農作物は勿論ですが、牛や鶏の酪農家や養鶏場もありました。
油断すると馬糞とは知らず足を踏み込んだり、肥溜めに落ちるようなところです。
まだ人も少なく私の遊び相手は多くが農家や工場などの職人の子供達です。
遊び場はと言えば裏山と田んぼと畑でした。
当時の農家はまだまだ貧しく台所は土間でした。
昔の千葉県は関東ローム層で土地が肥沃では無く、農産物は落花生とトマト位しか出来ません。
1950年代に京葉工業地域が建設されるまでは関東において最貧県でした。
但し館山は例外で、1945年(昭和20年)9月3日敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設および一部の公共施設が進駐軍に接収されます。
その進駐軍効果のおかげで開発が進み、東京や神奈川の富裕層の別荘地として繁栄しました。
なので房総の最南端にある千葉県立安房高等学校ですが、毎年国立一期校への合格者を排出する結構な進学校です。
現在でも九十九里から南下し鴨川を抜け、館山に入ると南国リゾート感に包まれ空気が変わります。
1960年代、千葉の農家では農業だけの収入での生活は豊かとは言い難い感でした。
発展的な農家の方はベットタウンによる人口増の気配を感じ、近辺の宅地造成の波に乗り家作で収入を増やします。
一方で教養がないが故に不動産会社の口車に乗せられ、先祖代々の土地を切り売りしていく農家も多く目にしました。
近所の農家の小学生の友達の家でも公道に面した倉庫や納屋から少しずつ切り売りし、残されたのは奥まった母屋だけの姿になります。
農家の同級生の兄が
「昨日も親父が、布団の中で札束数えてたん!」
と自慢げに周囲に話していました。
やがては母屋も消えてなくなります。
後にその子供と取り巻き数人が窃盗で捕まります。
一方、ある農家では自宅前で置き野菜の販売所を始めます。
やがてトタン張りの仮設店舗になり軒先で親父が鼻歌で店番をするようになります。
其の後、平屋の本格的な店舗を構えます。
昭和43年「ムラコシ青果店」の誕生です。
現在↓。
『沿革 | 接客サービス日本一を目指している健康スーパー』
これにはたまげた!
当時この農家には3人の男の子がいましたが彼らが礎を築きます。
3男坊は町会の面倒見の良いガキ大将でした。
学歴コンプレックスがありながらも先見の明を持った両親は子供達を全員商業高校に進学させ商売を学ばせた。
現社長は当時の長男の長男でしょう。
単なる学歴ではなく、親の教養による先見の明の賜物。
70年代前半、学校で感じたのは日教組の存在感です。
多くの教員が日教組に加盟し、組合員の発言権が強かった印象があります。
日教組の功罪は子供だった私には解りませんでしたが、組合員の子供達に対する贔屓は感じた。
小学校1〜2年生時の担任の先生は非組合員で温かみある教育者だった。
3〜4年時の担任は日教組の教員で冷徹だった。
当時私は担任に目の敵にされ、何かにつけ両親が臨時父母会に呼び出されます。
正直勉強には身が入らなかった。
クラスの空気は澱んでいて暗かった。
昭和40年代後半になると高度成長下のマイホームブームで、急速に宅地造成が進んだ。
見渡す限り田畑と雑木林が一夜にして新築戸建て住宅に変わった。
それまでの子供達は綿の丸首シャツにジャージ生地の継ぎはぎのズボンが定番だったのが、そこに突然紺ブレザーに蝶ネクタイでショートパンツの直立不動の転校生がやって来た。
誕生会に呼ばれると、デコレーションケーキが出てきた。バターケーキじゃない!
リビングにはヒグマの木彫りに代わり、ピアノがあった。
真っ白なハイソックスで駆ける色白の女の子が眩しかった。
インテリな空気を感じた。
5年生になると新京成沿線で子供の数が爆増しあちらこちらで新設校が開校した。
私も大穴の新設校に5年生の第2期生として転校させられた。
始業式の日、担任の音楽の先生が自己紹介をした。
「私は1学期だけで、2学期からは正式の担任の先生が来ます!」
「???なんで?」
未完成のプールを始めとして、校内に工事業者が出入りしていた。
最初の頃、体育の時間や全校集会では植林やグラウンドの整備をさせられた。
正式な担任の先生は日本女子体育大学を今春に卒業したばかりの相良直美みたいな先生だった。
私たちと一回りしか違わない。
この先生がまた強烈だった。
出席簿で児童の頭を叩くのなんか序の口。
宿題を忘れようものなら、自分が履いている教職員用スリッパで顔面ビンタ。
更に朱墨で顔に×を書く暴挙。
児童はそのまま下校させられる。
ある時に先生が書いた黒板の誤字に秀才君が気が付き指摘すると、クラス中やんややんやの大喝采。
「うるさ〜い!」
と教卓を叩く先生の拳の下には画びょうが。
またまた大喝采。
報復は出席簿での爆弾。
〇| ̄|_、
しかしながら学校は楽しかった。
先生は非常に生徒を可愛がり面倒見が良かった。
器械体操部と水泳部の顧問を掛け持ちしていた。
差別のない先生だった。
お陰で学業の成績も伸びた。
この時と小2年時の通知表だけは親をニンマリさせた。
実はこの先生が担任時代に私は屋上でちょっとした怪我をした。
保健の先生が病院での手当を勧めた。
担任は私を抱き上げたまま病院に駆け込んだ。
その時の先生の胸の感触は今でも覚えている。
40年後、この先生を同窓会に招待しようと思い電話を掛けたらしっかり私のことをしっかりと覚えて頂いておりました。
「あの時の職員室でお前の事を知らない職員は居ないな!」
「・・・・。」
最後に
「今なら懲戒免職ですよね!」
と
「間違いない!」
6年生でまた担任が変わりますがこの先生とも同窓会をきっかけに現在もお付き合いさせていただいております。
後に学校の近所でレストランを営む同級生から興味深い話を聞いた。
この小学校の開校は1年前倒しだったそうです。
理由は人口増加が市の計算より早すぎて、既存の小中学校がパンク状態になってしまったから。
未完成のプール、工事業者に植林やグラウンドの整備、2学期からの担任の就任。
納得がいきました。
今の時代なら社会的に大問題です。
【教育分断の中学校時代】
中学校に進むとこれまた創立3年目の新設校古和釜中学校。
40人クラスで8クラスあった。
教室は足らずプレハブ校舎に押し込まれた。
しかしながらまだまだ牧歌的でのどかな空気だった。
夏休みは要らない!と思う位学校は楽しかった。
数学の若い女の先生に何かと可愛がられた。
が、ある時に私が数学の授業中に先生に食ってかかった事があった。
期末テストも不出来だった。
人生初めて通知表で2を見た。(5段階評価)
スイッチが入った。
以後、数学の成績は急上昇。
本郷高校時代はラグビー部でありながら、常に学年10位以内で校内に貼りだされた。
ただ文系だったので受験には役立たずだったが。
が、人生では役に立った。
後に中学の同窓会で女子数人から
「数学の〇〇先生、絶対君に気があったよ!」
と告げられた。
そうだったのか?
実は大学の1年時にある駅前で偶然にもその数学の先生と顔を合わせた。
「立派な大学生になったな!」
Super Math Man になれたのは先生のお陰です。
ありがとうございました。
心の中で呟いた。
中学では学年ごとの指定の上履きだった。
ただバレー部の数人はオニツカタイガーのバレーシューズだった。
格好良かったので真似をした。
担任は見逃してくれたが学年主任に目をつけられた。
学年主任は教員間でも恐れる土井たか子委員長似の女の先生。
しかもオールドミス!
何度も上履きを注意されたが逃げ回った。
ついには職員室に拉致された。
「なんで上履きを変えない?」
「・・・・・・・」
さすがに堪忍袋の緒が切れて明日迄に履き替えてこい!との事。
しかしながら我が家も両親共稼ぎで帰宅が遅いので明日までは無理、明後日にはそろえます!と突っ張った!
すると学年主任はおもむろに自分のハンドバックから財布を出し2000円を私に差し出した。
「これで買って来い!」
と。
自分の愚かさを後悔し恥じた。
其の後二度とバレーシューズを履かなかった。
後の同窓会でこの学年主任の先生にこの思い出話をしたが
「そ〜んな事あったんだ?全然覚えていないわ!」
との事。
船橋での小中学校時代、教員と生徒は同じ目線にあり距離が近かった。
中学3年時、突然親が転居を決め、東京葛飾の双葉中学校に転校する。
登校初日、職員室で学年主任で化学の先生から注意事項の説明を受ける。
完全な上から目線。
1970年代半ば、東京の中学では学級崩壊の足音が聞こえた。
教員による体罰があった。
授業中に学年主任が開かれた教室の後ろの扉から入ってきた。
最後列に座るドロップアウト君の頭に教材の特大木製コンパスを振り下ろした。
ドロップアウト君の持つマンガ本を取り上げ無言で立ち去った。
或る日いじられキャラの同級生が純白のウールのマフラーを学ランの首元に巻いて来た。
女子2人がからかいながらマフラーを取り上げ女子トイレに逃げ込んだ。
同級生は追いかけ閉じられたトイレの扉に飛び蹴りを見舞った。
そこに英語教諭が通りかかった。
無言で同級生の胸ぐらを掴み往復びんたの嵐。
振り向いた同級生の両頬には手形がくっきり。
見ていた我々も驚いたが、ビンタされた同級生は勿論マフラーを取り上げた女の子の瞳もウルウルだった。
この頃、被体罰の常連組ドロップアウト君達が
「教育委員会に訴えてやる!」
と息巻いていた。
私は冷ややかで蔑んだ視線で彼らを見ていた。
私の中で学年主任の振る舞いは何とか理解が出来たが、英語教諭のビンタは許容出来なかった。
実は私も船橋の小学校6年時、似たような理不尽な体罰を1度だけ担任外の教員から受けたことがある。
以降私はこの教員に挨拶もしなくなった。
ただ未だにこの教員と日教組の元担任は師に値せずの思い出しかない。
ところが2学期になると体罰が急速に姿を消す。
やがて皆無に。
ドロップアウト君たちのチクリが教育委員会でも無視出来なくなった。
しかしながらチクリはドロップアウト君らを自滅へと導いた。
一部の教員による授業の差別という逆襲が始まった。
授業対象者は成績上位組に偏った。
学年主任の授業では回答できるだろうの生徒しか指さなくなった。
明らかな差別授業。
しかし授業は以前よりもスムースに進んでいた。
ある社会科の教諭の授業はテストのプリントを配り、最後に答え合わせをして終了。
教員は教壇で居眠りをしていた。
何なんだ?
ドロップアウト君達は当然さぼる。
学力格差が起きた。
クラスは偏差値55以上と45以下とに分かれた。
卒業式で「仰げば尊し」を歌う自分は冷めていた。
何の感情も湧かない卒業式。
未だに船橋の小中学校の時代の同級生とは付き合いがあり、同窓会は定期的に行われている。
当時の教員の先生方には全員出席して頂いております。
皆に驚かれる。
葛飾の双葉中学校は現在までお付き合いして頂いているのは一人だけ。
クラス会は1度だけ。
大学時代の或る日、後ろからチリ紙交換の車が近づいてきた。
運転席には元双葉中のドロップアウト君。
その頃、同窓生で彼らの仲間の1人が自動車の自損事故で亡くなったという話を伝え聞いた。
他のクラスの女の子と偶然に街で出会った。
「同級生とはほとんど会ってない。同窓会も無いし有っても行かない!良い思い出が無いから・・・。」
淋し気に呟いていた。
その昔、葛飾の学習院と呼ばれた名門中学がその面影は無。
実は双葉中に転校した当初、いじめの対象にされた。
学生服のボタンがはじけ、青痣が日常茶飯事だった。
「かっぺ!(いなかっぺ)」と揶揄された。
親が見かねて船橋の中学の元担任に相談をすると自宅に呼ばれた。
元担任から言われたのは
「勉強が出来れば一目置かれる!」
国数英の3教科の参考書を指定され、それぞれ毎日1時間の予習をするよう言われた。
2学期には担任がうなる位成績が上がった。
バレンタイン、チョコレートの山だった。
【教育混迷の高校時代】
本郷高校の校風は素晴らしかった。
当時は普通科、機械科、デザイン科があった。
一部の公立は劣化が始まっていたが、私学なので教員の情熱が熱かった。
本郷高校卒業生の中で有名人を多く輩出したのはデザイン科。
本郷高校の知名度を全国区に押し上げたのはサッカー部とラグビー部に代表される運動部である。
体罰は有ったが教員の熱意の表れだった。
生徒は素直に受け入れられた。
或る日の通学の朝、ラグビー部仲間と校門に向かうと週番の先生は柔道部の監督だった。
手招きで呼ばれた。
鞄を開けられ身体検査。
監督が相棒の鞄に手を突っ込むや否や、いきなり往復ビンタ。
教室に向かいながらミミズ腫れの頬をさする相棒に
「どしたっ?」
「くっそ〜、モク(煙草)が転がってやがった!」
「停学になんね〜で良かったじゃん!」
「・・・・・」
実はこの監督、パチンコに興じる柔道部員を見つけパチンコ屋の用心棒と押し問答になるも、締め落としてしまう程の強者でした。
部活では軽量級だがインターハイに出場した部員も落とされていた。
正に熱血漢教育!
或る日体育の授業でグラウンドに出ると地区の授業を終えてすれ違うサッカー部の連中の顔がはれ上がっていた。
「どしたっ?」
「ウォーミングアップのランニング、野球のバックネットに隠れてさぼったらばれた!」
体育教官(陸上部の監督)にパンチアウトされたという。
「そこまでやるか?」
「・・・・・」
全国を目指すものがそんな意識の低いことでどうする!
教員の喝だった。
当時、体育教官室は生徒間では網走刑務所と恐れられていた。
ラグビー部の夏合宿は山中湖での他行との練習試合が恒例です。
グラウンドは山中湖を挟んで宿舎の反対側にあります。
送迎はホテルのバス。
或る日練習試合で2軍がふがいないプレーをした。
罰として監督からホテルまでのランニングを命じられた。
10キロ弱だがハードな練習試合後である。
我々が宿舎でシャワーから出ると連中が帰ってきた。
「どうせ歩って来たんだろ?」
「いや、監督が後から走ってきたんでサボれん!しかも無茶苦茶早い!」
近年高校の高校や大学での運動部での暴力が問題になるが、本郷高校ラグビー部の大浦一雄監督は部活動の中で体罰は皆無だった。
サロンをオープンした頃、外語大のラグビー部員が何故か大浦一雄監督の事を良く知っていた。
「毎日染井霊園で走ってますよ!」
なるほど!
他校でありながらお世話になった国学院久我山のラグビー部中村誠監督や帝京高校サッカー部小沼貞雄監督の暴力も聞いた事は無かった。
皆尊敬出来た教員でした。
其の後、本郷高校はより一層進学校化に力を入れる。
1996年(平成8年) 工業課程の電子機械科とデザイン科の募集を停止。
2002年(平成14年)4月 攻玉社から高橋雄氏をヘッドハントし第7代学校長に就任。
この時代に学園はかなりの迷走が始まる。
教員の不手際による生徒の自殺事件。
この生徒は担任との面談で東大受験を合意し運動部退部を勧められる。
ただ所属する運動部では将来のキャプテン候補だった。
担任と監督との板挟みを苦にし、地元の銀行のビルの屋上から身を投げた。
実は当時同級生がコーチを務めていた。
「彼は部活を止めたかったのか?」
との問いに首を横に振った。
「学校は駄目だな!」
私の担任も
「もしこの生徒の父兄が訴訟を起こしたら学校は敗訴し今日の本郷は無かった。何故か訴訟を起こされなかった。」
と述べている。
実はこの一家は地元でも有名な人徳者である。
この頃に卒業式に出ない!という生徒もいた。
先生との人間関係が完全に破壊され、進路指導すら受けられなかったことから。
教室で寝ている生徒達に対し、何の指導もしない担任に食ってかかっているうちに関係が壊れたそうである。
人に迷惑を掛けなければ何をしても問題無い!という校風だった。
この頃の本郷高校の卒業生は愛校心は皆無った。
開成高校や海城高校も似た様な内情であると言われています。
実はこの時代に長男を海城高校に入学させたにも関わらず、夏休み前に退学させた方がいました。
理由は
「あんな学校に行っていたらは息子は駄目になる。」
だった。
本郷高校のデザイン科と機械科の廃止には疑問を感じる。
Wikipediaにあるように著名人の出身者の多くがデザイン科卒である。
学園のプロパガンダに貢献した運動部員の多くは機械科の生徒であった。
私は普通科ですが、大学へ進学した同級生よりも機械科のラグビー部の生徒の方が出世をしている。
こうして観てくると工業高校や商業高校を衰退させてしまった日本の教育は失敗であろう。
この頃、自民改革を掲げる小泉政権に励ましのメールを出した。
驚くことに御礼の返信が来た。
不評極まりない本郷高校にも
「輝ける本郷学園を取り戻して頂きたく!」
のメールをだした。
名前、卒業年月日、元ラグビー部員を明記し
「ラグビー部が花園に出場する際には喜んで寄付致します。」
の言葉を添えて。
返信が来なかった。
恩師も呆れていた。
教師と生徒との人間関係において、我々の時代とは明らかに違って来た。
予備校化である。
進学校でもこの有様である。
ただ偏差値の低い公立高校の空気はもっと荒廃していた。
実は本郷高校は我々の時代から非常に教員同士の仲が悪かった。
一つは教育指導方法における見解の相違。
偏差値至上主義教員と非偏差値至上主義教員。
学園創設者の松平家崇拝主義教員と松平家排他主義教員である。
当時の校長松平頼朝先生は学園創設者である高松松平頼壽先生の子孫にあたります。
生粋のサラブレッド。
ボーイスカウトなどの慈善事業にも非常に熱心でした。
学園を一流進学校にしたい教員間にはそれが物足らなく分断に繋がったようです。
多くの教員が職員室のデスクを使わず、専門教科室に閉じこもっていた。
我が恩師も本郷高校の急速な進学化に疑問を持ち、特進科の教員が集まる飲み屋に出向き
「東大に進学したから何なんだ?と一席打って来た」
と打ち明けられた。
我々が3年時、サッカー部は3回目の全国大会出場を果たす。
しかしながら過去の全国大会やインターハイでは全て1回戦敗退であった。
ところがこの年は準決勝まで勝ち上がり全国大会3位という結果を残す。
学校側もここまで勝ち進むとは予想しておらず、応援の準備が出来ていなかった。
お金の問題である。
大宮サッカー競技場や駒場競技場、準決勝の国立競技場まで全校生徒を応援に行かせると莫大な費用が発生するのだ。
全国大会初出場するとどこの学校もこの問題に頭を痛める。
公立は寄付が集まるが私学はそこまで住民サポーターの意識は低い。
この時のサッカー部部長は教頭先生であった。
1500人からの応援団の足を確保しなければならない。
しかも当時は決勝まで連戦。
観光バス会社等の手配に待った無し。
教頭先生は学校の女性の経理部長に圧力をかけ教頭決済を超える金額を横流しさせた。
後で辻褄を合わせるつもりだった。
ところがなんとこの経理部長がボート部の監督と出来てた。
翌年、教頭交代。
卒業して解った事だった。
ただこの新旧教頭甲乙つけがたい名教頭でした。
下らんことに邁進せず、学校運営に心血注いで頂けたら学園の混乱はもう少し小さかったような気がします。
残念です。
しかしながらし現在では、本郷高校の空気はだいぶ変わった。
ラグビー部が全国大会に出場を決め、ポスターを頂きに伺った際の受付での事務員の対応は神だった。
私は娘を私学の中高一貫校に入れましたが、素行不良で高等科への進学を拒否されました。
通達は中学3年の12月。
この時期に?
高校受験の準備もできない。
何考えてる?
しかも素行不良とした中には事実に反する事が有りました。
家に帰り、娘に問いただすと
「私は万引きはしてない!」
残念なことに学校は内部調査も生徒指導せず警察に。
これには親の私も呆れた。
校長も教務主任も学校の世間体とメンツしか考えていなかった。
だた担任の女性教師は泣いていた。
この担任とは娘と嫁は担任が結婚して退職するまで良く一緒に食事をしていた。
本郷高校では生徒を警察に突き出すなんて事は絶対あり得なかった。
この頃、娘の素行不良を本郷高校の恩師に相談したところ。
「お前が悪いんだろ!」
と怒りながらも自分の生徒の様に相談に乗って頂いた。
自分の高校時代の恩師に娘まで世話になるなんて。
しかも卒業して30年経つのにまだ怒られんのか?
クラス会で笑い話になった。
数年前に恩師から聞かれた。
「そういえば娘はどうした?」
大学で就職活動をしている旨を伝えると、満面の笑みで握手を求められた。
私が大学に合格した時と同じ笑みだった。
娘の中高一貫校は千代田区にあるが評判は頗る悪い。
そりゃそうだ。
最近になって恩師から打ち明けられた事がある。
2年進級時に留年する生徒が数名いた。
うち二人は他の教員も担任受けに二の足を踏み、なかなかクラスが決まらなかった。
一人は今でいう自閉症気味のいじめられ生徒、もう一人は登校拒否。
渋々我々の担任が引き受け持つことに手を挙げた。
登校拒否生徒には毎日家庭訪問を行い、膝を突き合わせ煙草を燻らせながら説得したそうだ。
二人で灰皿を山にしながら。
オイオイ。
自閉症の生徒には完全いじめ保護政策だった。
二人とも無事卒業させた。
実はもう二人、ダブりではないが問題生徒がいた。
一人が卒業式に担任の前に出向くと担任は涙を浮かべながら喜んでいた。
今の本郷高校なら絶対に卒業できない。
もう一人も担任には足を向けて寝られない!と未だに述べている。
この恩師、先日も糞忙しい時に着信歴があったので何かと思い電話をすると
嫁のかつらのメンテナンスの相談だった。
何だかな?
我々の時代は教員との間に強い信頼関係があり、例え体罰を受けてもそれを許容できた。
教員に対する尊敬の念がそうさせたのかもしれない。
体罰を肯定しているわけではない。
教える側の信念と受ける側の信頼が問題なのであろう。
それが人間の謙虚さを生みやがては勤勉さに向かう。
真の教育。
小中高とそれぞれの時代の私がお世話になった先生方には教科書以外の部分でも多くの大切な哲学を教えて頂けました。
今の時代、それが無い。
教員も生徒の側もそのレベルに無いのでしょう。
2000年代になると筑波大学と日本体育大学の運動部の活躍が目立った。
理由は安定志向で教員を目指す学生が増え、高校の強豪校の運動部の生徒が教育学部を目指すから。
これは駄目だ。
サラリーマン教員でしかない。
我々が尊敬する教員は皆熱血漢だった。
テレビでは多くの学園ドラマが放送され、教員はある意味ヒーローだった。
現在学園ドラマは皆無。
恐らく予備校化した現在ではドライ過ぎて出来ないのであろう。
仰げば尊し、わが師の恩。
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