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飲食店の時短命令について【西巣鴨】

2021.3.22 / OWNER'S BLOG
東京・神奈川・千葉・埼玉に発令中の緊急事態宣言に伴う飲食店に対しての時短要請が夜8時から9時までに緩和されました。
しかしながら緊急事態宣言が発令されている際に営業時間短縮命令を拒んだ飲食店事業者に30万円以下の行政罰としての過料を科すなどとしています。

緊急事態宣言中にも拘わらず通常営業の飲食店がTVの取材を受けていました。
スタッフが時短営業に応じられない理由に仕入れなどの取引業者を守ることを挙げて今ました。
協力金の無い仕入れ先が潰れたら我々も共倒れになる!と。
飲食店が時短要請に従わない理由の多くがこれです。

数年前行きつけの焼き鳥屋でつくねが消えた。
マスターに聞くとつくねの仕入れ先が辞めたそうだ。
他を探して入る最中!だとの事。
暫くするとつくねが並んだ。
ところがまた消えた。
「足が速いんだよ。怖くて扱えねぇ〜よ。」
との事。
結局メニューから消えた。



その時マスターから教えて頂きました事は、飲食店と仕入れ問屋との関係は素人の我々が思うほど単純では無いのです。
種類や品質だけではなく、タレや炭との相性。
仕入れの量と値段。
締めと支払いの問題etc。
つくねだけだから営業は続けられますが、メインの取引先に潰れられたら共倒れ間違いなし。
仕入れ先が変わるということは味が変わってしまうからです。

狂牛病を覚えていますか?
1986年にイギリスで初めて発見されたBSE(牛海綿状脳症)別名狂牛病です。
2003年、日本政府は米国産牛肉輸入停止措置(BSE問題)を取った。
牛丼の吉野家は当時の社長の安部修仁氏の判断で2004年から2008年まで長期間に渡り、主力商品である牛丼が提供できなくなるという緊急事態に陥った。
当時のメニューが朝定食と牛丼のみであった。
理由はオージービーフではアメリカ産の牛肉と同じ味の牛丼が提供不可能だということであった。
再び倒産の可能性があるにもかかわらず。

まあ確か我々の業界においても、カラー剤はそうでもないのですがパーマ剤は然り。
一昨年、取引のディーラーが1社倒産しました。
チオグリコール酸、システィン、システアミンのパーマ剤を仕入れていました。
パーマ剤は全て還元剤の種類、ph、アルカリ度、助剤の種類を一覧表にしてあります。
それに照らし合わせて試行錯誤しながら順次パーマ剤をリニューアルしました。
それでも当初は使い勝手の違いから作業に支障をきたすことがありました。

飲食店が取引業者保護の為時短要請に従わないのは大いに理解できます。
素人には考えが及ばないことがあるのです。

先月、三陸のワカメ工場で塩蔵ワカメが在庫過多になっています。
15kg単位で送料のみ負担すれば差し上げます。
とのラインが来ました。
市場価格5万円位。
申し訳ないかな、美味しく頂きました。

九十九里でも漁船が出ていない日が目立ちます。
鮮魚の卸先が減っているからでしょう。
鮮魚即売所も閉まります。

TV取材を受けた店は時により誹謗中傷のターゲットになる事が有ります。
更に営業時間短縮命令を拒んだ飲食店事業者に30万円以下の行政罰。
行政の中途半端なやり方に疑問を感じます。
やるなら関係業種全て規模に合わせた保証をするべきである。

以下やり玉に挙げられた外食大手「グローバルダイニング」に関する記事です。

『時短営業命令「憲法違反では?」 外食大手「グローバルダイニング」が都を提訴へ 長谷川社長「都合の悪い内容に懲罰を課すということ」』
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210320/dom2103200006-n1.html?fbclid=IwAR12IOINMNsZwexm3obEojhvvcOoMtZ03MIBXs3JOPLRp5IGtbDLVmiHDhk

『コロナ対策 改正特措法の衝撃「罰金じゃなければ、それでいいの?」「過料30万円、重すぎる」』
https://jocr.jp/raditopi/2021/02/05/237809/

『都の時短「命令」、グローバルダイニング系飲食店に集中』
https://www.asahi.com/articles/ASP3M6553P3MUTFK021.html

釈然としないですね。

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映画『やくざと家族 The Family』【西巣鴨】

2021.3.20 / OWNER'S BLOG
映画『やくざと家族 The Family』を観てきました。



https://www.yakuzatokazoku.com/

面白いんだけど重い!
でもお勧め。

『ストーリー』
バブル崩壊で自殺した証券マンの息子でチンピラの綾野剛扮する山本賢治、ひょんなことから舘ひろし扮する柴咲組組長の柴崎博の命を助ける。
それをきっかけに親子の契りを結びチンピラ時代の悪友と共に組幹部となる。
行きつけの食堂の女将愛子(寺島しのぶ)の亡き夫は柴咲の弟分だった。
愛子には一人息子の翼(磯村勇斗)がいた。

時代は平成の初期。
シノギで組は潤い肥大するが、利権争いで他組との抗争は激しさを増す。
用心棒をするクラブの大学生ホステス尾野真千子扮する由香に好意を寄せ一夜を共にする。
其の後、抗争殺人で若頭の身代わりとなった山本賢治は実刑14年となり塀の中で過ごす。
刑期を終えると時代は平成になっていた。

迎えの車に乗り組事務所に帰ってくると、暴対法の影響で組は縮小され見る影も無くなっていた。
みかじめ料やシノギが入らず2代目組長の中村(北村有起哉)は覚せい剤の密売に手を染め自らもシャブ漬けになっていた。
5年ルールと反社レッテルにより人としての生活もままならず、悪友だった元組員とも付き合いが限られてしまった。
由香と再会した山本は、14歳になる床の娘彩が自分の娘であることを知る。
しかしながら反社という事がかつての盟友・細野(市原隼人)の人生どころか、由香の人生までも狂わせてしまう。
そんな中、山本は親の復讐を誓う翼の言動に若かりし頃の自分と重ね、そして覚悟を決める・・・・・。


映画を見終わって自分のサロンの歴史が重なった。
うちがオープンしたのは平成2年。
訳あって最初は理容室だった。
特大サイズの床屋のサインポールを回した。

当時としては斬新な床屋だった。
界隈でちょっとは名が知れ、ヤクザの親分や姐さんその他多くのその筋の関係者にご来店頂いた。
500SELのベンツが店の前に並んだ。
先頭は若頭、次が地上げ屋、そして姐さんのベンツが最後尾。
「誰のベンツ?私のが停められないじゃない!生意気ね!」
店の向かいには毎朝シルバーのプレジデント。
的屋の元締めの親分の送迎車である。
抗争事件が有った直後には、防弾チョッキを着たまま組員がカットにいらした。

若頭や姐さんは常に幹部や部屋住みの若い衆を運転手兼付人にしていた。
部屋住みは特攻服がユニフォームだった。
多くは家庭に問題のある少年ばかりだった。
部屋と食事と躾が有り、さながら養護施設か戸塚ヨットスクールだった。
近所の半グレ親父が姐さん達と鉢合わせになろうものなら、直立不動で敬語がカミカミに。
笑えた。

たまに姐さんに食事やゴルフに誘われる。
若頭が先頭で繁華街を肩で風切って歩いていた。
呼び込みが最敬礼で迎えた。
ショーパブではマネージャー、女将、料理長がテーブルに挨拶に来た。正座で。

姐さんも若頭もいい人だった。
スタッフ教育にも協力して頂いた。
姐さんは曲がった事が嫌いでスタッフが自身の足元を見られる様な事をしたり、嘘をついたりすると凄みのある目つきでスタッフを諫めた。
ある時にはスタッフが若頭の付き人の組員をとら刈りにしてしまったことがあった。
付き人はスタッフを怒鳴った。
すると顔を剃っていた若頭が一言。
「お前、ここは姐さん御用達なの分かってんだろ?騒ぐんじゃねぇよ!」
付き人は黙り込んだ。
が、スタッフはチビった。

平成3年、バブル崩壊が始まり暴対法が施行された。
まず地上げ屋が一人また一人と居なくなった。
背中に墨の入った方々も嘘のように姿を消した。

しかしながら姐さんの組は健在だった。
ただ、やり手の2代目組長が急逝し、雲行きが変わった。
今までなかった仲間割れが起きた。
一人また一人と別荘に行く幹部組員が増えた。
組では覚せい剤は厳禁だったが、シノギが激減し手を出してしまうのだ。
売人ならまだしも自分で打ってしまう。
自使用は尿検査で足が付くのでほとんどがしょっ引かれる。
「器じゃ無いんだよ!」
その現状に姐さんが呟いていた。
幹部が半グレにやらせていたおでんの屋台も消え去った。
売り上げをごまかされてしまうのだ。

いつの間にか止まっていた向かいのシルバーのプレジデントも見なくなった。
2000年の頃にはほぼ壊滅的な状況だった。

取って代わり、中国人や中国残留孤児からなる怒羅権(ドラゴン)が裏社会で勢力を拡大した。
蛇頭や東北系チャイニーズマフィア(東北幇)も暗躍した。
当時山口組を始めとした関西系の暴力団も東京進出を始め、住吉会、稲川会と抗争が激化した。
裏社会は混乱した。

中国系の暗躍は暴対法で日本の暴力団が弱体化したからである。
夜の繁華街は無法化した。
当時、幹部の方がこぼしていた。
「あいつ等、仁義も糞もあったもんじゃねぇ!」
歌舞伎町が大変だ!という。

関西系の暴力団の東京進出は暴対法により関西でシノギが激減したためだと。
「大阪は東京と比べたらだシノギが少ないんだ!だから大阪もんは『生き馬の目を抜く』が如くなんだよ。金の生る木が生い茂る東京もんは温室育ちだからシマ取られんだよ!」
暴対法の数年前に世間を震撼させた幼女誘拐事件犯の宮崎勤が逮捕されています。
「ヤクザは赤線と同じ必要悪なんだよ。赤線が有りゃ宮崎勤みたいな事件は減るんだよ。」
姐さんからレクチャー頂きました。

姐さんは屋台の元締めの奥様の紹介でした。
美容室ジプシーだったのですが気に入って頂けた様です。
最初の頃、周りの方々から「覚せい剤入りのシャンプーで洗ってんの?」と揶揄されることもありましたが。(笑)
ただ予約も無くご来店され、サロンを独り占めの振る舞いでした。
見るに見かね、予約をするようお願いすると若い衆が待合で待たせるようになりました。
待合で特攻服のサングラス、パンチパーマの兄さんんが女性セブンを読んでいるわけです。
当然他のお客様は脅え営業妨害です。
順番の取り方に文句あんのか?でした。
流石に私も我慢できず私は言いました。
「客様は皆平等です。姐さんだけを特別扱いはできません。特別扱いがご希望なら指名料2万円をお支払いください。他に美容室はいくらでもありますから。」
姐さんの返事は
「私に向かってそんな口利いたのあんたが初めてよ!覚悟出来てんだろな?」
の捨て台詞でした。

引退なさっておりますが、未だにご来店頂いてます。
養子にと思っていた部屋済みの人とも訳有って縁を切り、今はお一人です。
あれだけ群がっていた組員の嫁達も来ないようです。
逆にさばさばしたように見受けられます。

いらっしゃる度に
「表参道に店出せばもっと成功したのに!」
と褒めて頂きます。
そのに対する私の答えはいつも笑顔で
「ここに店を出したから、姐さんにお逢いでき私も成長させて頂いたのですよ。」
一見の価値は有ると思います。

映画『やくざと家族 The Family』は少し私をノスタルジックにしてくれたそんな映画でした。

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川淵三郎さんオリンピックパラリンピック組織委員会会長に適任者だったのに【西巣鴨】

2021.3.11 / OWNER'S BLOG
森喜朗さんの組織委員会会長辞任で橋本聖子さんが会長になり1カ月近く経ちます。
実は川淵三郎さん、オリンピックパラリンピック組織委員会会長に適任者だったのに本人のフライングで残念です。



1993年にJリーグが出来て以降、日本サッカーは飛躍的に強豪国になったのです。
川淵さんは皆様ご存知、そのJリーグ発足の初代チェアマンです。
2015年には畑違いのバスケットボールで、当時内紛で機能不全に陥りFIBAから資格停止処分を受け、
代表チームが国際大会に出場できない状態の日本バスケットボール協会 (JBA)を組織改革し、
JBA会長も兼任して資格停止処分解除させた日本バスケットボールにおいても偉大な功労者です。

*日本サッカー冬の時代
今でこそサッカー日本代表はW-CUPの常連国になったが、90年位までは日本サッカーの不人気はひどかった。
JSLの試合は観客2,000人とかざらで常にガラガラ。
当時のプロ野球の不人気の代表パ・リーグのロッテVS日本ハム戦より少なかった。

昭和の時代、日本のスポーツは大人も子供も野球が人気ダントツだった。
小学生は皆読売ジャイアンツの野球帽にスタジャン。
家には野球グローブとバット。
シーズン中はプロ野球ナイター中継が毎日あり、TVのゴールデンタイムの漫画が野球中継に変わり、
多くの子供達ががっかりしたものです。
私が子供時代の流行り言葉に「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が有った。
子供が好きな3種の器を表してのものである。

1972年、ミュンヘンオリンピックでは松平康隆監督率いる男子バレーボールが金メダルを取り、
その軌跡のドキュメンタリーアニメ『ミュンヘンへの道』がTVで放映された。
猫田勝敏、南将之、森田淳悟、横田忠義、大古誠司ら、チーム全員12人を主役としたストーリーで、
男子バレーボール日本代表はアイドル並みの人気を博した。
特に森田淳悟、横田忠義、嶋岡健治は端正な顔立ちと共に190cm以上の長身で女性雑誌にひっきりなしに特集が組まれていた。
少年隊以上であろう。
その頃バレーボールは野球に次ぐ人気を集めた。
松平康隆は日本の男子バレーボールの功労者で後にバレーボール界の天皇陛下と言われていた。

余談ですが私の店のオープニングスタッフの弟が日本体育大学のバレー部で当時の監督が森田淳悟氏だった。
弟を通じて森田監督に私がミュンヘンオリンピックでの森田淳悟氏のファンであったことを伝えて頂くと、森田監督からカットでご来店の返事を頂いた。
実現はしませんでしたが。
その代わり当時の日体大の選手で後に東レで活躍した泉川正幸選手にはご利用頂きました。
196cmの身長なので自動ドアをくぐられていました。

サッカーはと言うと、1968年メキシコオリンピックで長沼健監督が釜本邦茂、杉山隆一を率いて銅メダルをとった。
ミュンヘンオリンピックの年にはTVでは村野武範主演の『飛び出せ!青春』が放送され、サッカーもやや日の目を見るようになった。
当時日本サッカーもミュンヘンオリンピックへの出場が期待されたが、1969年にウイルス性肝炎にかかったエースストライカーの釜本邦茂は完治せず、日本代表は予選敗退であった。
其の後は93年Jリーグが開幕するまで日本サッカーは永きに渡り冬の時代を迎えた。
日本代表がオリンピックに出場するのはメキシコオリンピックから28年後の1996年のアトランタオリンピックであった。
監督は西野朗、キャプテンには前園真聖そして若き中田英寿。
Jリーグが始まった3年後である。

但し70年代、海外ではサッカーは人気スポーツとなりフランツ・ベッケンバウワー、ヨハン・クライフなどのスーパーースターが現れ、欧州のサッカーが一分のマニアックなファンには支持され続けた。

*Jリーグ発足までの歴史
1983年にプロリーグを発足させ、1986年からW-CUPの常連国となった韓国代表には常に煮え湯を飲まされ続けた。
80年代に入り日本サッカーの低迷打破の為、多くの関係者がプロリーグの創設に働きかけたが発足までには至らなかった。

1988年3月にJSL総務主事・森健兒、JSL事務局長・木之本興三を中心として実質的な「Jリーグ」のスタートである「JSL第一次活性化委員会」が設置される。
1988年8月、川淵三郎が日本サッカーリーグ(JSL)総務主事となり、日本サッカー協会(JFA)JFA内に「プロリーグ検討委員会」を設置させた。
そして川淵がJリーグ初代チェアマンとしてリーグは1993年開幕した。
当時日本代表の強化委員長であった川淵が盛んにマスメディアに露出し脚光を浴びたため、
Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージがあるがそれは間違いである。
真の立役者は森健兒、木之本興三であるらしい。
ただ川淵は間違いなく仕事師であろう。

Jリーグ開幕前、日本代表監督のハンスオフトを発掘したのは川淵である。
1982年、TV解説者を務めていた日本サッカー協会強化委員長の川淵三郎は、ヤマハの試合の変化に驚き、調べた所オフトの指導と判明。
「日本人監督では限界がある」と強化関係者の反対を押し切り日本代表監督にごり押しした。
オフト監督は日本代表を見違えるように強くした。
但しオランダ人のオフト監督と元ブラジル人のラモス瑠偉との確執は当初かなり強かった。
なんせ80年代のラモス瑠偉が所属する読売サッカークラブは日本代表よりも強かった。

特に1985年、キリンカップではサントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招日本代表と読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に互角に渡り合った。ラモス自身のテクニックの高さを見せつけた。サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表勝てないどころか、読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった。
ラモス瑠偉は既に日本サッカーの皇帝であった。
オフト監督とは94年W-CUPアメリカ大会予選には和解したらしいが。

勝てば本大会出場、引き分け以下で予選敗退のドーハでの最終予選のイラン戦、1点リードの後半30分過ぎ、
ラモスがピッチからオフトに向かってMF北澤豪の投入を求め「キタザワ!」と叫んだ。
オフトは迷わずFW福田正博を送り出した。
ロスタイム、まさかの同点。
Road to AMERICAへの扉は閉ざされ日本選手はピッチに泣き崩れた。
後に川淵はドーハの日本代表を「良くも悪くもあのティームはラモスのチームだよ。」とコメントしている。

*ナベツネとの駆け引き
Jリーグのスタート前、川淵は日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)の親会社である読売新聞社社主の渡辺恒雄とチーム名で激しくぶつかり合った。
ラモス瑠偉、三浦知良、武田修宏、北澤豪らを擁する読売サッカークラブ は日産自動車と並ぶJFLの人気強豪チームであった。
川淵を始めとするJリーグ関係者は先駆者であるヨーロッパのプロサッカーを見習うべく地域密着のチームを理想とし、チーム名に企業名を入ないことを決めていた。
しかしながら親会社であり、読売ジャイアンツの親会社である読売新聞社とその社主ナベツネはチーム名の読売をこだわった。
話合いは平行線をたどり、ついにはナベツネは日産自動車らと共にJリーグとは別のリーグ構想をちらつかせた。
その時の川淵の反応は「結構ですよ。その代わりそちらのリーグの選手は日本代表には入れませんですから。」だった。
痛快極まりない答えだった。
ナベツネは折れた。

だから川淵三郎氏は仕事師である事は間違いない。
年を取ったことも間違いないが。

我々は『髪の悩み』『頭皮トラブル』『お肌の悩み』のお悩み解消に力を入れております。
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