『盛田直子さん ソニー創業者・盛田昭夫氏の記念館を建てた長女 :朝日新聞』
私が若かりし頃から尊敬する偉大なる経営者です。
私が神と崇める経営者について書いてみましょう。
『盛田昭夫』
井深大と共にSONYの創業者。
テニスとスキーを楽しむスポーツマンなスマートな経営者であった。
私が読んだ著書に
「MADE IN JAPAN」1987年
「NOと言える日本」1989年(石原慎太郎との共著)
がある。両方とも是非とも読んで頂きたい本である。
「MADE IN JAPAN」 では生い立ちからSONYの黎明期そして円熟期がつづられている。
「NOと言える日本」 では時価総額でアメリカの企業を上回り、更に半導体においてはアメリカの心臓部を独占している今、最早アメリカとは対等である!と結論付けている。
『SONY ウォークマン』は80年〜2000年まで20年間にわたる『Apple iPod』以上のヒット商品である。
Apple創業者のスティーブ・ジョブズが創業の頃からしばしばSONY本社を訪れていたのは有名な話である。
何故SONYがAppleに負けたのか?
80年代〜90年代前半、SONYブランドは絶対だった。
1995年6月、ソニー代表取締役社長に就任した出井伸之はソニーの経営戦略を、「ものづくり」から「コンテンツ重視」へと転換を図った。
そこまでは良かったのだが、傘下に映画会社やレコード会社を持つがゆえに著作権で音楽配信事業推進に二の足を踏んだ。
Appleはしがらみが無いのとスティーブ・ジョブズのワンマン会社の体質が功を奏し鶴の一声で音楽配信に躊躇なく突き進めた。
そこから両社の明暗が分かれた。
ただSONYのプレステは日本企業のプラットフォーマーとして期待されている。
因みに2000年の頃のAppleはPC事業においてMicrosoftのWindowsに押されまくり、倒産の危機だった。
『ソニー、第1四半期の営業益は1.1%減の2283億円…ゲーム大幅増益も家電赤字転落、イメージセンサーと音楽も苦戦』
金融が伸びているが、盛田昭夫社長当時は生命保険からは手を引きたがっていたのが皮肉である。
『本田宗一郎』
私が就学前、家の車はHONDA N360
私が初めて買った車がHONDAアコード。
私の中では本田技研工業はF1のイメージが強い。
1984年から1987年、ホンダF1総監督桜井淑敏時代、1986年から1987年にウィリアムズホンダでコンストラクターズチャンピオンを獲得。
1987年にはウィリアムズ・ホンダのパイロット、ネルソン・ピケがドライバーズチャンピオンを獲得し、2冠を達成した。
HONDAターボエンジンのあまりの強力さにFIAは相次ぐレギュレーションの変更でHONDAの封じ込めを画策した。
にも拘わらず、1988年、16戦中15勝の快挙を成し遂げたマクラーレン・ホンダ。
ついにFIAは89年からターボエンジンの禁止という暴挙に出た。
しかしながHONDAエンジンは91年のシーズンまで6連覇の結果を残した。
当時の事を桜井淑敏は著書『ゼロからの挑戦―私は、いかにしてF1で世界を制したか』 祥伝社、1989年 の中で以下のように述べている。
NAエンジンはターボエンジンに比べ開発の余地が少ない。
エンジニアにとって後退するようなレギュレーションの変更は到底受け入れ難かった。
FIAのジャン=マリー・バレストル会長に抗議に行った。
散々の舌合戦の後、バレストルの放った言葉は「俺たちはイエローモンキーの為にレースをやってるんじゃない!」だった。
本田技研工業本社に戻り社長の本田宗一郎の事の顛末を報告すると
本田は「レギュレーションの変更はうちだけなのか?」と聞くので、「この親父、何言ってんだ?」と思いながら、「全車に対してです!」と述べると、ホンダは「FIAは馬鹿だな!そんな事をしたらまたうちが勝ってしまうではないか!」言い放った。
改めて本田宗一郎という人間の器の大きさを認識させられた。
当時のマクラーレンは保守的な設計に強力なエンジンを組み合わせるというマシン開発を行ってきたため、他チームより空力研究やシャシー開発に遅れを取りだす始まりであった。
現在のF1におけるマクラーレンチームの不振の原因はこれに尽きる。
『アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ』
これは見るべき。
単なるF1&セナの記録映画ではなく、人種差別を問題提起したドキュメンタリー映画です。
本田宗一郎は生前自分の名前が付いたHONDAの社名にコンプレックスを持ち、SONYの社名を羨んでいた。
『江副浩正』
リクルートグループの創業者である。
リクルートは東京大学の学生新聞である「東京大学新聞」の広告代理店「大学新聞広告社」として創業。
リクルートブックなるものが我々の時代から大学生のいる家に無料配布された。
無料配布が味噌なのである。
リクルートは70年代後半から単なる就職情報関連会社から飛躍的に事業拡大をしていった。
特にリクルート社子会社のマンション販売会社のリクルートコスモスは、当時マンション供給戸数でダントツだった大京観光(現大京)に迫る勢いだった。
「リクルート事件」までは。
リクルート事件とは江副浩正リクルート社会長が自社の政治的財界的地位を高める目的で、有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した事件である。
贈収賄で有罪となったが、『国の見えざる力』を感じる。
古くは田中角栄、最近では堀江貴文の逮捕に似ている。
『リクルート事件・江副浩正の真実』 (中公新書ラクレ)を読んで欲しい。
当時の竹下昇政権は世論の猛反対にも関わらず、是が非でも『消費税』を導入したかった。
リクルートは格好の餌食にだったのか。
今のリクルート社員のほとんどはカモメマークを知らない。
『横山修二』
ライオンズマンションで知られる大京観光創業者である。
90年、大京観光の株価は財閥系不動産会社を上回っており、それぞれの社長からも一目置かれていた。
野球関係者ではないのにも係わらず、巨人軍監督原辰徳の結婚式の仲人である。
当時の巨人軍の選手の仲人は藤田元司か長嶋茂雄または王貞治なんだが。
子供の頃から長嶋に憧れ、長嶋巨人でのプロスタートの筈が成績不振で長嶋監督が解任。
ドラフトのくじを引き当てた藤田監督のもと、巨人入団で1年目からレギュラー。
結婚した1986年のジャイアンツは王監督。
この3者には派閥あり。
当時、球団経営をもくろんでいた横山修二は大京の社員研修に講師として腹は勿論、巨人軍をはじめとした多くの野球選手を招聘していた。
またバブル期に父親の原貢が不動産経営に失敗しその肩代わりをしたのが大京観光である。
その関係で横山氏が仲人となったのでしょう。
この頃、巨人の江川卓、桑田真澄らはことごとく投資に失敗し多額の負債を抱え込んでいる。
桑田が大リーグに行けなかったのは、借金の肩代わりをした読売新聞社主渡辺恒雄が首を縦に振らなかったからである。
江川ジャイアンツが誕生しなかったのは株式投資で多額の借金を抱え、監督業では返済が叶わなかったからだと言われている。
タニマチだった横山修二は球団経営に意欲満々だった。
中日ドラゴンズ球団買収をもくろみ、進出したオーストラリヤゴールドコーストに中日ドラゴンズのキャンプ地として招致に成功した。
当時横山修二がキャンプ視察に来る際には球団全員で空港に出迎えた。
但し、当時の主砲落合博満を除いては。
当時リクルートと大京の社員は30代でボーナス100万円以上がゴロゴロいた。
奇しくもリクルート大京共に創業が昭和35年である。
現在のマンションデベロッパーの経営者の多くが大京観光の元社員であり、ITベンチャー企業の多くの経営者がリクルート出身である。
『リチャード・ブラソン』
趣味で始めた中古レコードの通信販売から始まり、航空会社から果ては「ブラウンGP」でF1にも参戦した。
レコードレーベル「ヴァージン・レコード」を立ち上げ、セックス・ピストルズやカルチャー・クラブ、マイク・オールドフィールドなどのアーティストを発掘した。
80年代、経済低迷から英国の再生を目指したマーガレット・サッチャー首相。
リチャード・ブラソンは公営企業を矢継ぎ早に民営化し競争原理を導入した国策の経済立て直しの急先鋒だった。
87年、ヒースロー空港でヴァージンアトランティック航空の飛行機を見た時そのデザインに、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港でコンコルドを見た時以上に感動した!
みなロマンのある創業者でした。
マイクロソフトの『ビルゲイツ』やソフトバンクの『孫正義』、楽天の『三木谷浩史』などが現れる前です。
敬称略をお許しください。
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