今回のフジテレビの不祥事はテレビというオールドメディアが古い体質から抜け出せていないことを証明している。
特にテレビ局と大手新聞社。
第29代航空幕僚長 田母神 俊雄さんが
「日本のメディアは信用できない。理由は原点は大本営の嘘っぱちにあるから。」
と語っていた。
つまりオールドメディアは国、政の府の広報部ということだ。
大手新聞社の消費税は軽減税率8%。
理由は
ニュースや知識を得るための負担を減らすためだ。
新聞界は購読料金に対して軽減税率を求めている。
読者の負担を軽くすることは、活字文化の維持、普及にとって不可欠だと考えている。
しかしながら、『日刊ゲンダイ』・『東京スポーツ』・『夕刊フジ』などのタブロイド紙は10%。
理由は政府に批判的な記事を書くから。
不公平極まりない。
テレビ朝日の
『ニュースステーション』1985年(昭和60年)10月7日〜2004年(平成16年)3月26日
メインキャスター・久米宏
『報道ステーション』2004年(平成16年)4月5日〜
初代メインキャスター・古舘伊知郎
二人とも政府の圧力で番組を去ったといわれている。
久米は、
民主主義が成立するためには、ある国の政治が悪しき独裁制などに陥らないためには、報道の仕事をする人は、いかなる政権からも距離を置き、政権に対してあえて批判的な役割を果たすのがその重要な役割・任務なのだということ(三権分立に加え、報道の独立の重要性)、それを忘れると民主主義はもろくも崩壊・消滅してしまうという現実、歴史的な事実(ドイツ・ナチス政権下のプロパガンダ放送、日本の大本営発表などが招いた悲惨な結果の歴史的教訓)を正しく理解したうえで自身の役割を認識しており、自身の発言のスタンスについて、「反政権与党」である旨を表明している。
古館は
「巷でですね、何らかの圧力がかかってやめさせられるということでは一切ございません。それが真相です」と安倍政権や放送法遵守を求める視聴者の会からの圧力を否定する主張をした。また、朝日新聞5月31日朝刊では「画面上、圧力があったかのようなニュアンスを醸し出す間合いを、僕がつくった感はある」と述べている。
つまり天皇陛下を頂点として政府>官僚>オールドメディア>民間企業というヒエラルキー、つまりカースト制度の上に成り立っている。
オールドメディアはそのような環境の中で、今日まで社内に古き悪しき体質を維持し続けてしまった。
政府、霞が関の批判をし続けるエコノミストやコメンテーターは地上波や大手新聞からは姿を消し、活動の場をYouTubeやラジオに移している。
先だってお亡くなりになった経済評論家で獨協大学教授の森永卓郎さんもそうである。
目に見えぬ力を嫌うが故。
今回の中心人物の中居正広氏だが
ネット上によると、和解金を支払ったとされるフジテレビ元アナウンサーの渡邊渚さんに対しての行為は常軌を逸した行為だったらしい。
常識を超えた和解金9000万円がそれを物語っている。
月刊誌「噂の真相」が2000年に報じた中居の妊娠中絶騒動等、中居の女好きは相当なものらしい。
SMAP解散の真実として
当時、
SMAPのチーフマネジャー・飯島三智氏を独立が、木村拓哉の裏切りによって、その“クーデター”が失敗したのが真相だと思わざるをえない!と囁かれていた。
さらには以前から木村とそれ以外の4人のメンバーとの確執が報道されていた。
当時、木村拓哉は完全な悪者扱いだった。
しかしながら立場は完全に逆転してしまった。
中居は芸能界をある意味追放された。
独身がゆえにブレーキが利かなくなっていたのであろう。
対して、木村は強面の工藤静香の監視と家族の存在がが大きかった。
九十九里で家族でサーフィンを楽しむ姿をよく見かけた。
1960年〜1970年代のヨーロッパサッカー界に、2人の正にスーパースターがいた。
ジョージ・ベストとヨハン・クライフ。
1946年と47年生まれの貴公子。
しかしながら、2人の人生は真逆だった。
ジョージ・ベスト
アイドルのような容姿とピッチ上の活躍からエル・ビートルや5人目のビートルズと呼ばれた。
マンチェスター・ユナイテッドに在籍した11シーズンでリーグ優勝2回を果たし、1967-68シーズンには28得点を挙げ得点王に輝いた。
1969年夏にはデンマーク人女性と婚約するが、すぐに彼女への熱は冷め、11月には婚約を解消。
1978年にアンジェラ・ジョーンズと結婚し、1981年に息子が誕生したが、結婚生活は数年で終わりを告げた。
この頃には飲酒量も多くなり、危行が目立つようになる。
この頃にはアルコール依存症に陥り死亡した母親の訃報に精神的に追い込まれ、酒やギャンブルにのめり込むようになり、1982年には破産に追い込まれる。
1995年、ヴァージン航空の客室乗務員であったアレックス・パーシーと2度目の結婚。
長年の飲酒生活により肝臓が破壊され、2002年7月にはロンドンのクロムウェル病院で肝臓移植手術を受けるまでになる。
2005年11月25日死去。(59歳没)
ヨハン・クライフ
アヤックスで1970〜73年UEFAチャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)3連覇。
1974年ワールドカップドイツ大会ではキャプテンとしてオランダ代表を率い準優勝。
1971、72、73年にバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)3度受賞。
1968年12月に21歳という若さで元モデルでオランダの実業家の娘ダニー・コスターと結婚すると3人の子供をもうけた。
1973年夏、600万ギルダーという当時世界最高額の金額でスペインのFCバルセロナに移籍。
『世界で最も裕福な亡命者』と言わせた。
監督としても、1987年アムステルダム・アヤックス、で14シーズン振りの国際大会UEFAカップウィナーズカップでの優勝。
FCバルセロナでは在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、
コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、スーペルコパ優勝3回(1991、1992、1994)、
国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、
UEFAスーパーカップ優勝1回(1992)を成し遂げた。
90年代にオランダ代表監督の就任があったが至らなかった。
2009年8月31日、スペインリーグ09年-10年シーズンの開幕戦となったカンプノウでのバルセロナ―ヒホン戦前のパーティーで、当時の日本サッカー協会犬飼基昭会長はクライフ氏に日本代表監督の就任を口頭で要請していた。
パーティー会場でクライフ氏は犬飼会長から「日本代表チームの監督になってもらいたい。若い世代を含めた育成システムすべてをお任せしたいと考えている」と切り出されると、シャンパングラスを片手に、クライフ氏は通訳の言葉を冷静に聞き入った。少し考えてから、穏やかな冷静な口調で「私は心臓に持病があり、今もバルセロナを離れることはできない。せっかくの話だが、引き受けることはできないと思うよ」と答えていた。
そのプレーと風貌から「オランダのベスト」と称されたこともあったが、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つベストに例えられることを嫌っていた。
当時、そのベストに対し
「ベストがもし私のように早くに結婚をしていれば、彼の人生は違ったものになっていたであろう。」
と述べていた。
2016年3月24日死去(68歳没)
中居正広君も木村拓哉君のように結婚し家庭を築いていたら、その才能を末永く発揮し続けられたと思うのは私だけ?
『ジョージ・ベスト』
『ヨハン・クライフ』
#酸性パーマ#ノンジアミンカラー#和漢ハーブカラー#ヘナ#香草カラー#ザクロペインター
#西ヶ原#西巣鴨#西ヶ原四丁目#王子#ヘアーサロン#美容院#美容室#メンズカット
#ヘッドスパ#髪質改善#頭皮トラブル#白髪ぼかし#ジアミンアレルギー#デトックス