森喜朗さんの組織委員会会長辞任で橋本聖子さんが会長になり1カ月近く経ちます。
実は川淵三郎さん、オリンピックパラリンピック組織委員会会長に適任者だったのに本人のフライングで残念です。
1993年にJリーグが出来て以降、日本サッカーは飛躍的に強豪国になったのです。
川淵さんは皆様ご存知、そのJリーグ発足の初代チェアマンです。
2015年には畑違いのバスケットボールで、当時内紛で機能不全に陥りFIBAから資格停止処分を受け、
代表チームが国際大会に出場できない状態の日本バスケットボール協会 (JBA)を組織改革し、
JBA会長も兼任して資格停止処分解除させた日本バスケットボールにおいても偉大な功労者です。
*日本サッカー冬の時代
今でこそサッカー日本代表はW-CUPの常連国になったが、90年位までは日本サッカーの不人気はひどかった。
JSLの試合は観客2,000人とかざらで常にガラガラ。
当時のプロ野球の不人気の代表パ・リーグのロッテVS日本ハム戦より少なかった。
昭和の時代、日本のスポーツは大人も子供も野球が人気ダントツだった。
小学生は皆読売ジャイアンツの野球帽にスタジャン。
家には野球グローブとバット。
シーズン中はプロ野球ナイター中継が毎日あり、TVのゴールデンタイムの漫画が野球中継に変わり、
多くの子供達ががっかりしたものです。
私が子供時代の流行り言葉に「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が有った。
子供が好きな3種の器を表してのものである。
1972年、ミュンヘンオリンピックでは松平康隆監督率いる男子バレーボールが金メダルを取り、
その軌跡のドキュメンタリーアニメ『ミュンヘンへの道』がTVで放映された。
猫田勝敏、南将之、森田淳悟、横田忠義、大古誠司ら、チーム全員12人を主役としたストーリーで、
男子バレーボール日本代表はアイドル並みの人気を博した。
特に森田淳悟、横田忠義、嶋岡健治は端正な顔立ちと共に190cm以上の長身で女性雑誌にひっきりなしに特集が組まれていた。
少年隊以上であろう。
その頃バレーボールは野球に次ぐ人気を集めた。
松平康隆は日本の男子バレーボールの功労者で後にバレーボール界の天皇陛下と言われていた。
余談ですが私の店のオープニングスタッフの弟が日本体育大学のバレー部で当時の監督が森田淳悟氏だった。
弟を通じて森田監督に私がミュンヘンオリンピックでの森田淳悟氏のファンであったことを伝えて頂くと、森田監督からカットでご来店の返事を頂いた。
実現はしませんでしたが。
その代わり当時の日体大の選手で後に東レで活躍した泉川正幸選手にはご利用頂きました。
196cmの身長なので自動ドアをくぐられていました。
サッカーはと言うと、1968年メキシコオリンピックで長沼健監督が釜本邦茂、杉山隆一を率いて銅メダルをとった。
ミュンヘンオリンピックの年にはTVでは村野武範主演の『飛び出せ!青春』が放送され、サッカーもやや日の目を見るようになった。
当時日本サッカーもミュンヘンオリンピックへの出場が期待されたが、1969年にウイルス性肝炎にかかったエースストライカーの釜本邦茂は完治せず、日本代表は予選敗退であった。
其の後は93年Jリーグが開幕するまで日本サッカーは永きに渡り冬の時代を迎えた。
日本代表がオリンピックに出場するのはメキシコオリンピックから28年後の1996年のアトランタオリンピックであった。
監督は西野朗、キャプテンには前園真聖そして若き中田英寿。
Jリーグが始まった3年後である。
但し70年代、海外ではサッカーは人気スポーツとなりフランツ・ベッケンバウワー、ヨハン・クライフなどのスーパーースターが現れ、欧州のサッカーが一分のマニアックなファンには支持され続けた。
*Jリーグ発足までの歴史
1983年にプロリーグを発足させ、1986年からW-CUPの常連国となった韓国代表には常に煮え湯を飲まされ続けた。
80年代に入り日本サッカーの低迷打破の為、多くの関係者がプロリーグの創設に働きかけたが発足までには至らなかった。
1988年3月にJSL総務主事・森健兒、JSL事務局長・木之本興三を中心として実質的な「Jリーグ」のスタートである「JSL第一次活性化委員会」が設置される。
1988年8月、川淵三郎が日本サッカーリーグ(JSL)総務主事となり、日本サッカー協会(JFA)JFA内に「プロリーグ検討委員会」を設置させた。
そして川淵がJリーグ初代チェアマンとしてリーグは1993年開幕した。
当時日本代表の強化委員長であった川淵が盛んにマスメディアに露出し脚光を浴びたため、
Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージがあるがそれは間違いである。
真の立役者は森健兒、木之本興三であるらしい。
ただ川淵は間違いなく仕事師であろう。
Jリーグ開幕前、日本代表監督のハンスオフトを発掘したのは川淵である。
1982年、TV解説者を務めていた日本サッカー協会強化委員長の川淵三郎は、ヤマハの試合の変化に驚き、調べた所オフトの指導と判明。
「日本人監督では限界がある」と強化関係者の反対を押し切り日本代表監督にごり押しした。
オフト監督は日本代表を見違えるように強くした。
但しオランダ人のオフト監督と元ブラジル人のラモス瑠偉との確執は当初かなり強かった。
なんせ80年代のラモス瑠偉が所属する読売サッカークラブは日本代表よりも強かった。
特に1985年、キリンカップではサントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招日本代表と読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に互角に渡り合った。ラモス自身のテクニックの高さを見せつけた。サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表勝てないどころか、読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった。
ラモス瑠偉は既に日本サッカーの皇帝であった。
オフト監督とは94年W-CUPアメリカ大会予選には和解したらしいが。
勝てば本大会出場、引き分け以下で予選敗退のドーハでの最終予選のイラン戦、1点リードの後半30分過ぎ、
ラモスがピッチからオフトに向かってMF北澤豪の投入を求め「キタザワ!」と叫んだ。
オフトは迷わずFW福田正博を送り出した。
ロスタイム、まさかの同点。
Road to AMERICAへの扉は閉ざされ日本選手はピッチに泣き崩れた。
後に川淵はドーハの日本代表を「良くも悪くもあのティームはラモスのチームだよ。」とコメントしている。
*ナベツネとの駆け引き
Jリーグのスタート前、川淵は日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)の親会社である読売新聞社社主の渡辺恒雄とチーム名で激しくぶつかり合った。
ラモス瑠偉、三浦知良、武田修宏、北澤豪らを擁する読売サッカークラブ は日産自動車と並ぶJFLの人気強豪チームであった。
川淵を始めとするJリーグ関係者は先駆者であるヨーロッパのプロサッカーを見習うべく地域密着のチームを理想とし、チーム名に企業名を入ないことを決めていた。
しかしながら親会社であり、読売ジャイアンツの親会社である読売新聞社とその社主ナベツネはチーム名の読売をこだわった。
話合いは平行線をたどり、ついにはナベツネは日産自動車らと共にJリーグとは別のリーグ構想をちらつかせた。
その時の川淵の反応は「結構ですよ。その代わりそちらのリーグの選手は日本代表には入れませんですから。」だった。
痛快極まりない答えだった。
ナベツネは折れた。
だから川淵三郎氏は仕事師である事は間違いない。
年を取ったことも間違いないが。
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