伏見工業高校(現京都工学院高)ラグビー部の当時のメンバー、荒木邦彦さん昭和33年生まれです。
私の数年先輩にあたります。
当時、公立の工業高校や商業高校に多くの同級生が進学した。
我が母校の本郷高校も昔は普通科以外に機械科(後に電子機械化に名称変更)とデザイン科があった。
(両学科共、平成8年度から募集停止。)
本郷高校の名を全国に知らしめたのはサッカー部、ラグビー部の全国大会での活躍です。
中学生が関東近郊から学校見学に来た。
ソープランドを通り抜け、角を曲がるとラグビーのポールとサッカーのゴールが鎮座する広大なグランドが目に入る。
本郷高校のグランドである。
正門右側手前には人工芝グラウンド。(実はこのグランドは三菱養和スポーツスクールのグランドで、始めてきた人は本郷のグランドと勘違いしてしまう。)
しかも徒歩3分。
見学した者はそろの立地条件と設備に魅せられてしまう。
OBの北島康介が2004年アテネオリンピックと2008年北京オリンピックにおいて、100m・200m平泳ぎで金メダルを獲得したのもブレイクに拍車をかけた。
実は運動部のレギュラーの多くは機械科の生徒であった。
秋本治- 漫画家(こちら葛飾区亀有公園前派出所)、原哲夫- 漫画家(北斗の拳)、江原啓之- スピリチュアルカウンセラー等を始めとして、デザイン科には多くの著名人が卒業生に名を連ねる。
私の時代、本郷高校の偏差値は57〜8。
同級生の進学先は日東駒専〜亜細亜大学や千葉商科大学などの文系が関の山。
成績優秀者でも青山学院や関西学院大。
慶応早稲田はいなかった。
卒業して就職するのは流通業や百貨店にスーパー。
平成になり、日本経済が低迷期に入ると同級生の多くがリストラされた。
結婚どころではなく、鬱を発症するものが現れる。
ある大手百貨店に就職した友人は本店外商部に所属した。
そこでの業績が評価され大阪の新店舗立ち上げのプロジェクトチームに抜擢された。
ところがOPENからこけた。
3年で東京に戻る筈が10年以上に伸びた。
しかも配属は子会社の販売員。
会う度にただただ苦笑いだった。
もう一人の友人、やはり大手百貨店。
自分の担当部署の売り上げが3年続けて大きく落ち込んだ。
屈辱的な転籍の辞令を通達された。
辞表を提出した。
「就職した時に、こんな時代が来るなんて予想もしなかった。」
飲んだ時に虚ろな目で呟いた。
自動車販売に就職した友人。
整備の主任になっていた。
しかし、バブルが崩壊しメーカーが業績不振に陥った。
営業部への転籍を命じられた。
車が売れず、子会社のタクシー会社への転籍を命じられた。
辞表を提出した。
後に離婚し、田舎に帰ったと人づてに聞いた。
数年前、ラグビー部の同級生が集まった。
機械科だった友人が写真を見せてくれた。
それはアメ車のコンバーチブルに乗り、日に焼けた満面の笑顔の写真。
もう一人の機械科の友人も松崎しげる並みの黒さだった。
聞けばゴルフのハンディがシングルだそうだ。
二人とも仕事はそれぞれゼネコンと重工業の下請け企業に勤めているという。
この時代ラグビーやサッカーで全国に名をはせた学校は、
伏見以外にも大阪工大高、秋田工業、相模台工業、秋田商業、清水商業、島原商業等、銚子商業など、商工業高校が多かった。
かれらは卓上の勉強は苦手でも、マニアックまでの自分のこだわりがあった。
根性と体力においても普通科の生徒は足元にも及ばなかった。
それは彼らの多くが自負している。
しかしながら80年代から偏見的なホワイトカラー偏重感が高まり大学進学率が高まり始める。
校内暴力が問題になりはじめ、次第に商工業が中学生から敬遠されだす。
体罰の禁止で、最早校内暴力に歯止めをかけられず、生徒激減で統廃合が進み、商業工業高校の名前が消えた。
当然生徒は授業で専門科目の実技を学ぶことが出来なくなった。
その影響は町工場や商業にも及び、景気後退も向かい風になり日本経済に大きな影を落とす。
商業高校生を多く受け入れていたのがダイエーやヤオハン。
社長はそれ時代の名経営者ともてはやされた中内功と和田和夫。
しかし2000年以降、両社とも経営危機に陥り、本業のスーパー部門はイオン傘下に
本来ならばその分野で活躍できたはずの若者は、就職の選択肢がサービス業と営業職しかないのである。
マニアックと根性と体力を活かす場所が無く存在感は薄れてしまった。
参考までに現在の本郷高校
本郷高校 偏差値 ; 偏差値: 71 (普通科)