学童疎開船・対馬丸の生存者で、引率教師だった糸数裕子さんが9月29日、脳梗塞のため97歳で亡くなりました。
教え子を船に乗せたことの自責の念に苦しみながらも体験を語り続けた生涯でした。
死去の報道はあまり大きく取り上げられず、ひっそり感が漂います。
対馬丸とは太平洋戦争末期にアメリカ軍による攻撃で沈没した学童疎開船である。
1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される。
午後10時12分頃、学童疎開船対馬丸が鹿児島県・悪石島の北西約10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により、沈没しました。
最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにした。 一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。 関連資料によっては60人とされることもある。 対馬丸の生存率は学童7%、一般(疎開者)14%、軍人48%、船員72%とする資料もある。
私は対馬丸をアメリカ軍は学童疎開船と知ったうえでの攻撃だと思い込んでいました。
じつはアメリカ軍は貨物船との認識だったようです。
当時のアメリカ軍の無線傍受力を考えれば信じ難かったのですが。
沖縄県沖縄公文書館に米国国立公文書館から収集した「海軍軍司令部長室記録群」の「傍受無線翻訳文及び第2次世界大戦関係雑書、1940年〜1946年」が有ります。
それには、対馬丸に関する記録日本軍の暗号解読に成功したのは、対馬丸その他の船舶が「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する」ことのみを伝えています。
KAZUURA MARU(和浦丸)、GYOOKUU MARU(暁空丸)、そしてTSUSHIMA MARU(対馬丸)の3隻は、船団を組んで8月21日に那覇港を出港します。
『漂う死体、忍び寄るサメ、辺り一面は真っ赤な血が…米軍の新型潜水艦に狙われた沖縄の子供たちの「悲劇」』
「大東亜戦争の事件簿」対馬丸事件 #2
「対馬丸が学童疎開船として使われていることを知らなかったのはボーフィンの乗組員だけではなく、じつは護衛艦に乗っていた日本軍兵士の大半も同様であった。
彼らは対馬丸を通常の貨物船だと思っていたのである。」
とあります。
我々がこれらの事実を知らなかったのは当時の政府の事情によるようです。
『国のため隠された沈没 対馬丸75年の空白』
(2019年8月22日 沖縄局 松下温記者)
「国は当時、この事実を明らかにせず、対馬丸の悲劇から75年がたつ今も、遺族は真実を追い求めています。
次は沖縄での決戦とみられるなか、厳しい食糧事情もあって国は「足手まといになる」と子どもたちの疎開を促していたことが、当時の資料から分かっています。
対馬丸が沈没した事実が広まることで、疎開が進まなくなることを恐れたとみられています。」
このような事情だったのです。
戦争においては我々は知らないことが多過ぎます。
私も戦争に関しては、学校の授業より書籍や資料や映画などで知りえた事実の方が圧倒的です。
学校の教科書では近代史の戦争の部分が著しく省略されているからです。
太平洋戦争が省略されるのは開戦に至るまでの背景において、日本の認識と中国、韓国の認識が著しく食い違います。
深掘りすれば、事実無根と外交問題に発展しかねません。
アメリカも戦時下においてのジュネーブ条約違反行為での蛮行が問題化し、快くは思わないでしょう。
それこそ日米安保条約に亀裂が入りかねません。
戦後、3/4世紀以上経ちます。
そろそろ事実を学び、総括をするべき時だと思うのですが。
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