戦後のファッションの移り変わりとそれに伴うヘアーの歴史を独断と偏見で解説いたします。
1945年に太平洋戦争が終結すると、GHQの影響もあり日本のストリートファッションは欧米の影響を大きく受けたエレガントなアメリカン・スタイルに注目が集まります。
日本のファッションデザイナーの草分けは森英恵。
戦後復興期の1950年代の日本映画において、『太陽の季節』、『狂った果実』、『彼岸花』、『秋日和』、『秋刀魚の味』、『四十八歳の抵抗』等、400本にものぼる映画の衣装デザインを担当した。
*1950年代
戦後復興期、ニュールックやオードリーヘップバーン風が流行った。
「ニュー・ルック」は1947年、クリスチャンディーオールが発表した
髪型もそれまでのお下げ髪やおかっぱスタイルから、ウェーブヘアやショートスタイルが現れる。
セシルカットが流行ったのも50年代。
コールドパーマが流行する。
パーマネント普及に大きな貢献をしたのがあの山野美容専門学校開設者の山野愛子である。
戦前、山野愛子は日本初のパーマ指導技術者になり、日本にパーマ技術を広めた。
山野愛子の夫、山野治一は逓信省(現在の日本郵政株式会社)勤務だったが、1935年山野愛子との結婚を機に退官し、パーマーネント機械製造に従事した。
戦前は電熱パーマだった。
太平洋戦争の開戦が迫る中、1941(昭和16)年8月に金属類回収令が公布された。
物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うためである。
ここからはあくまでも先々代の巨匠の先生方から聞いた話ではありますが・・・・。
山野治一は金属類回収令が公布されるや否や、山野結髪所と山野美容講習所(現在の山野美容専門学校)にある電熱パーマ機を全て出身地である長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に隠させた。
戦後、その電熱パーマ機が今の山野大国の礎となったのである。
モダンガールの登場でファッションとヘアースタイルの世界の未来への未来へ扉が叩かれた。
*1960年代
60年代に入ると、アメリカの影響を強く受ける。
ファッションは洋服を買うという消費行動に後押しされる。
イヴ・サンローランやマリー・クヮントなどのヨーロッパのファッションデザイナーが脚光を浴び、黒船の如く日本へも上陸してきた。
森英恵が東洋人で初めて1965年にニューヨーク・コレクションに初参加。
パリ・コレクションにも進出した。
この時代のトレンドは豊かな色彩。
ミニスカートが大流行。
アイビールックのVAN、対するトラディショナルなJUNなどのブランドが流行る。
VIDAL SASSOONがヘアデザインに革命を起こした。
カット&ブローである。
女性を逆毛から解放した。
VIDAL SASSOONはヘアーデザインにおいて、ラインという概念を植え付けた。
その結果、ヘアーデザインが格段に多様化した。
SASSOONのカット理論は現在のカットのベーシックとなる。
じつはSASSONはイギリス人理容師だった。
*1970年代
70年代に入ると高田賢三や三宅一生、山本寛斎ら日本人デザイナーがパリコレやニューヨークコレクションで成功を収める。
日本人デザイナーが世界で注目を集める。
『an-an』『non-no』『JJ』『popeye』と、ファッション誌の創刊が相次ぐ。
原宿や青山の「マンションメーカー」からはインディーズブランドが現れる。
さらに「パルコ」「ラフォーレ原宿」「丸井」などの小売店に人気が集まる。
一方で、1973年のオイルショックの影響で自然志向・倹約主義も支持され、大量生産・大量消費を否定する「チープ・シック」が現れる。
さらに1975年まで続いたベトナム戦争への反戦ムードによって生まれたのが、「ヒッピー」。
日本にも上陸した。
グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーン、ブリジット・バルドーなど欧米の映画スターのファッションの影響も受ける。
ファッションが大衆の間での盛り上がりが始まる。
男性のロングヘアースタイルが流行し、多くの男性が美容店行くようになる。
理容業界、冬の時代の幕開けである。
ウルフカットが流行する。
カラーテレビが家庭に当たり前となり、子供たちまでもがアイドルのファッションとヘアースタイルをまねた。
この時代、美容業界でも石渡潔、萩原宗、井上陽平等元祖カリスマ男性美容師が現れた。
40年位前、私はある業界人方の紹介で青山にあったカリスマ美容師の1人『古場伸佳美容室』にサロン見学に行った事が有ります。
その時、中年なんだけどなんか派手な男性が小綺麗で小柄な少年と2人でパーマをかけていました。
ジャニー北川さんだと教えられたのはサロンを出てからです。
少年は東山紀之だったのかも?
*1980年代
80年代、『Y’s(ワイズ)』の山本耀司や『COMME des GARCONS(コムデギャルソン)』の川久保玲がパリコレでその名を世界に知らしめます。
彼らのモードはタブーとされていた黒を基調としたファッションだった。
DCブランドの先駆者として評価されています。
『HIROKO KOSHINO』の創始者のコシノヒロコを始め、妹のコシノジュンコ、コシノミチコもコシノ姉妹も日本を代表するファッションデザイナーとして注目を集めた。
80年代前半、日本ではアメリカのウェストコーストサウンドの人気が高まる。
それに呼応して、70年代のトラッドをよりカジュアルにしたファッションが流行る。
サーファースタイルやテニスルックなどのスポーツカジュアルである。
聖子ちゃんカットとサーファーカットが大ブレイク。
キャンパスでは笑える位に、聖子ちゃんorサーファーカット。
テニファールック(テニス+サーフスタイル)が溢れかえった。
『FILA』や『ellesse』等のテニスウェアブランドのポロシャツに『FARAH』のフレアパンツがお決まりだった。
80年代半ばになると、1984年の男女雇用均等法に象徴されるように女性の社会進出機運の高まりと共に真逆のキャリアファッションが登場。
そしてバブル時代へ!ボディコン・パワーショルダーのスーツで踊りまくる女子が多数発生した。
メンズも黒服の象徴であるパワーショルダーのWのスーツが好まれた。
70年代までとは違い、ライフスタイルの多様化に伴い、それぞれ全く違うジャンルのファッションが流行した。
1979年に現れたタケノコ族等の原宿ファッションが猛威を振るいだす。
パンク、ロッカー、何でもありありの様相を呈していた。
パンクファッションは経済が疲弊しきったイギリスにおいて、仕事につけない若者の反抗心から生まれたのであろう。
日本は、70年代のオイルショックから立ち直り、バブルに向かいファッション産業が栄華を極めつつあった。
ボディコン・パワーショルダーの女子の定番はソバージュヘア。
メンズはパワーショルダーのWのスーツに合わせて、もみあげが短く斜めラインだった。
80年代美容業界ではパーマ液の売り上げが一番多かった時代。
ブームが去ると多くのパーマ剤メーカーが倒産した。
80年代を代表するトレンドスポットの一つが表参道にあったハナエモリビル(1978年竣工、丹下健三氏の設計)。
ファッションの最先端&発信源とされた。
現在は複合施設「oak omotesando(オーク表参道)」
その後バブル崩壊の影響もあり、彼女の名を冠したハナエモリ(Hanae Mori Co.,Ltd.)は2002年5月30日民事再生法を申請、受理され負債総額101億円で倒産した。
しかしながら森家の総資産は1000億円以上と言われている。
まさに不死蝶。
当時、ハナエモリビルの隣にあった『KEY WEST CLUB』がトレンド・スポットだった。
アパレルメーカー東京ブラウスが経営するカフェバーで、多くの芸能人やファッションモデル御用達だった。
『KEY WEST CLUB』に出入りしていたのは・・・・、遊び人以外の何物でも無し。
和洋女子大や大妻女子大の知り合いをよく見かけた。
学部は決まって家政学部。
80年代後半になると、ジョルジオ・アルマーニ、ジャンフランコフェレ、ヴェルサーチなどの派手なミラノ系ファッションが流行する。
フランスのジャンポール・ゴルチェも持て囃されていた。
またロンドンのキングス・ロードやカーナビー・ストリートなどを発祥の地とするカウンターカルチャー系も若者に人気を博した。
ブランドなら何でもありの時代。
ブランド物で着飾ったクリスタル族なる者が巷に溢れ、女子高生までもがレノマなどの小銭入れやポーチを持ち歩いた。
ブランド全盛時代。
ヘアー業界はモッズヘアやTONY&GUYなど多くのヨーロッパ系美容室のフランチャイズチエーンが押し寄せた。
まさにバブル。
ファッション誌で美容室特集が組まれ始める。
『美容室』と『SEX』特集は発行部数を飛躍的に伸ばした。
美容室ブームはTVでも取り上げられる様になった。
ファッションやヘアーを大学生以上の大人達がリードしていた時代。
*1990年代
ファッション企業がピークを迎える。
ベネトンやレイトンハウスがF1チームのオーナーになっていた。
ファッション市場の拡大に伴い、流行のサイクルが早まりデザインの賞味期限が急速に短くなる。
パリコレの記者会見でデザイナーが訴えた。
「このままでは我々デザイナーは使い捨てになってしまう。」
そしてバブル崩壊が日本を直撃する。
女子大生から女子高校生がファッションシーンの主役になり、古着やサブカルファッションが流行る。
「JK」と呼ばれ、時代を謳歌。
アニエス.bに代表されるフレンチカジュアルも人気を博す。
しかしながらブランドが急速に色あせてゆく。
ファッションリーダーが欧州のデザイナーとそれを愛用する大人世代から、ストリートファッションの小娘に取って代わった。
安室奈美恵信者のアムラーなるものが現れる。
ミニスカート・厚底ブーツ・ロングヘアに茶髪・極端な細眉、日焼けサロンなどで焼いた浅黒い肌が特徴。
経済成長が止まりファッションにお金がかけられなくなったのもあるが、携帯電話などの新たなる生活必需品の登場も時代背景にある。
巷の女性ファッションからはエレガントさと可憐さが消え失せた。
1994年に誕生し大ブレイクしたのがユニクロのフリースだ。
スマップの木村拓哉と江口洋介がメジャーになり、彼らををまねたロン毛男が流行る。
個人的にはそのデザイン性と技術性の高いウェーブスタイルから今井美樹のヘアスタイルに注目していた。
表参道からはやたらと削ぎこんだデザインが多く発信された。
渋谷の人の流れがそれまでの公園通りからセンター街に移る。
カリスマ美容師ブームが始まり、美容室TAYAが美容業界で初めて日本証券業協会(現・ジャスダック)に株式を店頭公開。
EARTH、Ashなどの大手チェーン展開をする美容室が現れる。
それまでの美容室といえば店舗面積20坪が一般的だったが、50坪以上セット面10面以上という大型サロンの台頭が目立つ様になる。
美容室経営セミナートレハロースの会(サクラ産業主催)が行った1994年のアメリカ視察ツアーに、EARTHやAshの創業者達が参加し、ニューヨークの大型店舗に刺激を受けるたのが発端である。
ただしこれが後にディスカウント商法を招き美容師の社会的地位を低下させてしまう。
1995年12月20日 (初代)キュービーネット株式会社創業。
\1000CUT戦国時代の幕が切って落とされた。
¥1000CUTの登場は理容業界を沈没させた。
当時この動きを警戒し、東京都理容組合に対抗策を講じる様注意喚起した。
理容組合の理事からの返答は
「それそれの店舗の営業努力で乗り切ればよい!」
だった。
まさに指導力の欠如。
理容組合の無能ぶりを改めて認識させられた。
実は当初すべてのQBハウスにはシャンプー台を始めとした流水施設が無かった。
これにより¥1000CUTサロンの設備投資費を通常のヘアサロンの半額以下にすることを可能にした。
通常のサロンと比べフェアーではない。
またいくらカットだけとはいえ、これは不衛生極まりない。
後に理容組合の働きかけで、全ての理美容所に流水の設備設置の条例が義務化される。
時すでに遅し!
¥1000CUTの台頭を受け、TAYAがShampoo、AshもChokiPetaという低料金サロンを出さざろう得ない状況に追い込まれた。
そしてこの戦略は自社ブランドのイメージを傷つけた。
数年前、ある美容室チェーン経営者で後に研究団体の長を務める方に東京都理容組と同じように、¥1000CUT対策を注意喚起した。
彼の答えは
「それそれの店舗の営業努力で乗り切ればよい!」
だった。
*2000年代
「早くて安い」ファストフードならぬファストファッションが、2000年代半ば頃から注目を集める。
代表的なのがZARA、GAP、Forever21(2019年倒産)、H&M。
それにより安くてほどほどのチープカジュアルが主流に。
それまでのゆったりとしたスタイルから、キレイめ・細身のスーツスタイルが人気を博す。
いろんなテイストをミックスしたり、「森ガール」と呼ばれるほっこりな雰囲気のスタイルが登場。
森ガール(もりガール)とは、ファンタスティックな文脈で「森にいそうな女の子」をテーマとする、ゆるく雰囲気のあるモノを好む少女趣味のようなファッションスタイルである。
テーマは「かわいい」。
キャバクラ嬢がリードするおねえ系ファッションも登場。
但しファッションにおいて最早革新は起こらなかった。
80年代までのファッションはある意味ファッションデザイナー達がリードしていた。
しかしながら90年代に入り、バブル崩壊後ストリートファッションが主流になり、ファッションリーダーは素人の小娘や小僧に取って代わってしまった。
またジャンルや世代、更にはジェンダーの垣根がなくなった。
最早何でもあり。
パソコンと携帯電話の急速な普及で全てがデジタル社会に様変わりする。
実用性が重視される世の中。
QBハウスに代表される¥1000CUTが増殖を始める。
2008年9月、リーマンショックでミルトン・フリードマンの新自由主義の問題が浮き彫りになる。
市場経済において規制のあるケインズの経済理論が見直された。
ヘアースタイルに盛り髪なるものが現れる。
正直、何が良いのか理解できない。
バランスも糞も無い。
2002年、日韓ワールドカップが共同開催される。
ドイツのオリバーカーン。
ブラジルのロナウド、ロナウジーニョ、リバウドなどスーパースターが来日した。
しかしながら注目度NO1はイングランド代表のデイビッド・ベッカムだった。
ベッカムヘアの男子が街中に溢れた。
全く似合わん輩もいたが。
地蔵通りのオバ様方までがベッカム!と騒いだ。
イベッカム率いるイングランドは準々決勝敗退してしまう。
ベッカムは大会後のオールスターテームにも選ばれてはいない。
でもベッカムヘアはスタンダードなヘアースタイルになった。
違った意味でのMVP!
これ以降、大ブレイクしたヘアスタイルは無い。
*2010年代
世界のサブカルチャーに影響を受け、「ノームコア」と呼ばれるファッションが脚光を浴びる。
ノームコアとは、ファッショナブルでありながらも平凡でカジュアルなルックです。
テーマは普通だけどおしゃれ。
2000年代に流行したファッション、Y2K(Year 2000)が注目される。
正直、2010年代以降のファッションには注目すべきものが無い。
『Supreme』など、何が良いのかわからない。
ユニクロは世界市場では売れている。
これはプロテニスプレーヤーの錦織 圭にロジャー・フェデラーや国枝 慎吾、スノーボーダーの平野 歩夢、プロゴルファーのアダム・スコットなど、ユニクロのスポンサード発掘が成功した賜物であろう。
カジュアル。
ヘアースタイルも然りである。
女性のヘアスタイルにおいては真新しいデザインは何も生まれなかった。
メンズには動きがあった。
2019年9月日本でラグビーワールドカップが開催された。
ジェイミー・ジョセフHC率いる日本代表が予選プールを全勝で首位通過。
ベスト8という快挙を成し遂げた。
ワールドカップでの活躍を受けラグビー日本代表は空前のブームとなり、チームスローガン「ONE TEAM」がその年の流行語大賞に。
田村優、姫野和樹らが活躍し、彼らのヘアスタイル『フェードカット』が流行る。
これにより若手経営者の理容室に活気が戻った。
フェードカットを追い風に2020年、初めて生産性で理容室が美容室を抜いた。
しかしながら時既に遅し。
理容学校は風前の灯火。
ただベッカムヘアほどの社会現象にまでは至らなかった。
正にカオス。
2021年に国立新美術館で開催された
『ファッションインジャパン1945-2020』
-流行と社会
これを観てファッションデザインの終焉を確信した。
ファッションデザインというものは90年代で終焉してしまった事が見て取れる。
以降はファッションコーデである。
1945〜1990年までのブースは豪華絢爛で華やかなる正にファッションドリーム。
以降はまるで服飾専門学校の学園祭展示ブース。
われわれが子供の頃、イヴ・サンローランやココ・シャネルの名前は子供でも知っていた。
高田賢三、三宅一生に山本寛斎はよくテレビに出ていた。
今やファッションデザイナーの名前が浮かばない。
我々もヘアースタイルについて、昔はトレンドに注目し、ファッション性を追求した。
しかし2000年代からはデザイン性はこだわるが、メインテーマはエイジングにシフトさせた。
90年初頭のパリコレの記者会見でのデザイナーの訴えが、今となっては空しく感じてしまう。
敬称略とさせて頂きました。
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